さいきんの若い人が 朗読したいと思うわけ 2001/03

推測 わたしの場合

いつの時代も若い人は詩を詩のようなものを書いていた と思うのね
授業中のーとの罫線の外や教科書の落書きのそばに
座って授業を聞くという態度を強制させられたとき
おうちに帰ってなにげなく机にむかってお勉強するために購入された机のうえで
じぶんのおもいをなにかにあらわすときそれは音楽だったり絵だったり
ファッションだったり身体性をともなう運動だったり言葉だったりするわけで
そのなかでとりわけ言葉は日常的に用いる ひじょうに親和性のある 道具

でも なぜいま こんなにリーディングが若い人の関心をひくのか

声を発することにおもいを 発することに
意地悪く とらえるとある種 表現至上主義的な強迫観念 をみたりする
90年代のじぶんさがし
からはじまってそんなぐちゃぐちゃ悩むよりてっとりばやく他人に認知してもらおう
ストリートでギターをかき鳴らさなかった とか 芝居もできなかった とか
でもなんか したい 人は普段使いの言葉を
詩 と よんでみたら時代はどうやら詩に追い風

もうひとつは歌謡曲の歌詞の影響

これも90年代からはじまったとわたしはおもうのだけれど人生応援歌の氾濫
こんなわかりやすい言葉を若い人はすんなり受け入れていくわけ?と呆然としてしまった
受け入れたら今度数年後自分でも口にしちゃう詩にしてしまえばもっと声にだしやすい

コミュニケーションの希薄さをよくいわれる時代

ケイタイに登録された何百件の番号をあっさりと削除する
うつむきながら親指を酷使する姿
言葉をしんじているのかいないのか
本人たちも半信半疑なのではないかしら
しんじたい
から いっしんにうつむいて親指の動作に脳はほかのものを見ていないのではないの
ただメールの普及は言葉への感覚を変えている とは思う
筆無精の人でさえメールは社交の一部として使わざるをえなくなってる
250文字以内に話し言葉でもなく書き言葉でもなくなにかを伝えるという大義のために

たいていは学校を卒業してもう受け身の机に座ることができなくなれば
自室の部屋で机に向かうよりも仕事やつきあいに時間が埋めつくされたら
もう
ひとりで言葉で自慰することはない

自慰のための詩はあるときは それが必要なのだからそれでいい
詩人の書いた詩が若い人の励みになったり共感をよび
なんらかの人生の糧になる
ために詩を読む朗読する ことが身近にあるほうがいい
言葉に親しみ
そのなかから磨くこと を覚えた人がでたらみっけもん
いまのリーディングブームに基本的には賛成なのだ

さてもうひとつ わたしの場合

なぜ 朗読するのか
みもふたもなくいえば上達するのは楽しい
釣りでも料理でもダンスでもコンピュータでも格闘技でも
人生の彩りとして
そのくせ
詩は 言葉である人生だよ
いいきってしまい
あともどりできなくなる
言葉 というのがポイントなのだとおもう
思考するとき言葉 が結局のところ及びもつかない作用をしているわけじゃん
他人の言葉からもわたしたちはいろんな掴みをもつ
言葉の声を人に伝えるとき目の前にいる人になら
表情仕草トーンエネルギーいろんな付加をつけて
さらに言葉をていねいに響かせる
朗読の利点はここにある かな

いちばん古い感情の記憶は保育所時代のもの友達が喧嘩をしていてそのことが
悪循環のきわみに思えてかなしみ というものをとらえたの
幼いころから人が自分もふくめてぞんざいな言葉で関係をこじらせたり
落ち込んだりなかなか事態を好転できなかったりすることがひじょうに 嫌だった
伝える言葉にとても関心の高いこどもだったのです
朗読をするようになったわたしの声はすこし変わったのですよ
5年前の朗読音源を聴くとやはり違ういまも上手ではないけど伸びやかさもなかった

もっと言ってしまえば

目の見えない人も声の聞こえない人もいるわけで
それを考えるともう存在として愛の詩人になるしかない
愛のはなんで付くのかわかんないけどまあ差別化というか肩につけとけばわかりやすいかなと
96年あたりから使ってる闘う詩人という肩書きもあるんです
詩人を辞書で調べると役立たずとあるらしい ある人の辞書には
そんな側面ももちつつ愛のある言葉を紡ぎたいと思っています