C/P カルチャーポケット

生きる詩人になる方法 2001/05

地理の勝利は地名にある。

翻って、空には名前がない。
曇り空とか空の様子を表す言葉はあっても、空の場所は地名に依拠するから。天王寺の空もウクライナの空も火星の空も同じだから。時間に分断されることもない。明日の空も17世紀の空も繋がっているんじゃないかしら。

おなじひとつの空に、こころを伸し、言葉に紡ぐのが詩人の仕事。 詩は言葉。
そして、人生だよ。生きること。生と死の深遠な岸辺で、言葉によって響き渡ること。 それをはじめにお伝えしてから、詩人になる方法を記しましょう。
その前に、それでもわたしは詩をつくらない詩人になる、という方もいるかしら。
存在が詩人。
それも素敵ね。ケイタイ電話より、テレパシー。
黙って詩人というのもカッコいい。言うからには覚悟してね。

あらゆるものに詩情は潜んでいる。
芸術、自然、人、事象に。地名にも。
でも厳密には詩情と詩は違うもの。
詩情を手繰り寄せ、言葉にしたのが詩。
では、詩は好きだけど自分はつくりたくない、という所謂読者は詩人かどうか、というと、締切でしか詩作しないわたしより、よっぽど詩人やん。言葉が染み込んでいる人は、詩人よ。

ソッコウ詩人になる方法
1)自身の人生を生きること。
2)言葉に意識を持つこと。
3)言葉と言葉の間の空間に感じること。
4)詩を読んでみる。
5)詩をつくってみる。
6)詩を朗読してみる。

岐立する詩人になる方法 2001/07

水で書かれた詩。乾いた後に残るものは。

適切な言葉の組みあわせが持つ、詩のふくらみ。言葉の背後にひろがっていた沈黙の厚み。
言葉では言い尽くせず断念したやりきれなさと、それでも書かずにはいられなかったおもいのたけとが衝突。
その爆音は沈黙。くぐりぬけて、くぐりぬけた言葉が詩なの。

朗読すると、沈黙の深度がよくわかる。
発声された言葉のしっぽが沈黙を連れてくるから。

ところで、トウキョウあたりでは、朗読とポエトリーリーディングはジャンルわけされているらしい。
その細かな定義はよくわからないので、ここでは朗読と表記するね。
現代詩の界隈では、実のところ朗読論争があるんだって。声にだすことを否定している詩人もいるの。
わたしは、いい詩というのは、テキストとしても、朗読もどちらもが素晴らしいものだと思ってる。

では、いい詩とは、いい朗読とはどうすればできるのか。
やってみるしか方法はないのよね。誰も変わりにやってくれない。

美味しい料理をつくりたい、と思っても、いきなりつくれるわけじゃないよね。試行錯誤して、失敗もして。
でも味覚は人それぞれで、好き嫌いだってあるわけで。それは詩でもいっしょ。
はじめの一作で満足して、もしくは不満足で、もうつくらない、とあきらめないで。
詩は規則を持たないため、あらゆる言葉の試みが許されているわけ。
それを実践するには一作では無理があるよ。誰かにつまらなくても、他の誰かには素敵だと思われるかもしれないし、詩作が自分のために効果があったなら、ひとまずそれでいいとしよう。注意事項としては、自身の文体・思考リズムに縛られないこと。
脳の中を丸ごと曝け出しても、あんまり面白くないんだな。作品と人格は別なの。
だから、自分らしさに固執してはだめ。

詩のいいところは、いくつかあって、ひとつは機微だと思うのよ。思考の視線をきゅにゅっと、ずらすような。
そしたら新しい視界がひろがる。その楽しさを感じることができたら船出したのと同じ。
あとは大海をどんな風に吹かれ、どこの港に寄るか、船長のあなたは日々を旅する。

いい朗読について。
詩人は役者やパフォーマーではないと思う。でも訓練とか練習とか場数とかが役にたつのは確か。 でもいちばん大切なのは、ちゃんと屹つこと。 自身と対峙した詩人の背には、沈黙がしずかにひろがっている。

顔をあげる詩人になる方法 2001/09

どこへ行くのか、それより歩くこと。どこへ行くのか、それより歩くこと。

真実はあんがい平凡で、無造作で、路地に転がる子どもたちの忘れたボールのその影に潜んでいたりする。
正しい道、という概念は、正しく歩くことの前では、色あせて見える。
歩くこと。それを経験と呼ぶには漢字が硬すぎる。もっと想像力を孕んだもの。

朗読は、言葉に声をとおすということ。身体を。
言葉は、多くの意味を持っているよね。活字で見たときと、声をとおしたときとは、その意味が変わるよね。
わたしたちは、人と話すとき、表情や仕草、声のトーンそれらの情報から、その人の発する言葉の意味を汲みとろうとしているよね。
詩を朗読するとき、詩人はその言葉の身振りのさなかに、みずからの言葉とのつきあいを現してしまう。
つまりは、言葉づかいは、他者や、世界をどのように感じ、もっと言えば、自身の生をどのように担っているかを知らしめてしまうもの。

では、朗読するために、イベントを行ないたいという方のために、お話しましょうね。

イベント企画意図をひらめく

(動機は何でもいい。この場所で朗読したいとか、こんなテーマでやってみたいとか。 企画書を書くといいよ。伝えやすいからね。この時点であなたはプロデューサー、しっかり!

詩人がイベントするのもどうか、という意見もあるけど、詩人はタイドでしめすものよ。

5月末の「朗読ボクシング全国大会」で惨敗したの。複雑な思いにとらわれ、トウキョウで朗読しようと思いつく。準備期間3週間。
7月1日には果敢に無謀にも上演。多くの人に助けられ、励まされたわ。
イベントもいろいろ。例えば、わたしの「トイレ連込み朗読プロジェクト」は、詩と、トイレと、連込むお客さま一人いれば、準備OKよ。

開けていく詩人になる方法 2001/11

人生は、一冊の本。

めくってゆくのは、風かしら。時間かしら。
それとも意志なのかしら。

小説を読んでいるとき、それは「小説」を読んでいるのか、「一冊の本」を読んでいるのか、どちらなんだろう。
目の前にある印刷された一冊の本。きっと何千何百という同じ本がある。
多くの同じ本が存在しているからこそ、いま、この一冊の本がわたしの手元にあるのね。
不思議な存在だね。そして、わたしが「読む」という行為をとおして「一冊の本」となる。
この読むという経験は、実はとっても貴重なことだと思うの。

 20世紀のロシアの優れた詩人マンデリシュターム。シベリアの収容所で死んだ。
彼の詩集は長い間発禁となる。詩人が逮捕された時、自室に隠した詩集のコピーが失われても、 いつでも再現できるようにと奥さんはただひとり、その詩篇を暗記しつづけた、という話を聞いたの。

一冊の詩集をめぐる壮絶なエピソード。でも聴こえてくるのは、とても静かな水のような音。
禁書なんて、わたしにはピンとこないのだけれど。でも、ちょっと目を瞑って考えてみる。
現実をまっすぐに引き受けているひとりの書き手の問いかけを、人々が一冊の本として手にし、想像力を喚起されることさえ塞がれるとりかえしのつかなさ。この場合は権力によってだね。
権力が恐れ、書き手の表現の自由を奪うのは、本が一冊の本となって読まれる影響力を指しているんだね。
いま書店に行けば、選ぶのに困るほどの本が林のよう。
本の溢れた本棚に慣れっこになって、まっすぐな読者になることを意識してないなあと、ちょっぴり反省した秋です。

一冊の未知の本をここに持ち、 それを読むというのは、自身を読者として自立させることだと思うから。

現在、本は「一冊の本」となるために、企業の思惑や売れ筋やをかいくぐって出版されているよね。
それは、ひとりで生きていかなくちゃいけないけれど、他者と関わることなしに暮らせないわたしたちの姿にとても似ているような気がするの。
そして、頁を開けていく。
人生の頁を。

詩と出逢うことの多くは、一冊の詩集と出逢うこと。
何度も何度も頁を繰り、紙の端がよれよれになった擦りきれそうな詩集。
頁を繰るごとに渡ってゆくのは、ひとりからひとりへ届けられるコトバ。
詩人が語るコトバは解体されたり膨らんだりしながら、読者の想像力のなかで、新しいコトバを放つ。
そんな詩集を手にしたとき、世界にみつけられたような気がする。
地下鉄に揺られながら。夜の枕元や、陽射しのさしこむ図書館で。
そんな時間を重ねて、自分と世界の、自身への向きあい方を問われていると気がついたのは、最近のこと。
ともかく、そんな一冊の本が、あなたの手元にあればいいな。

わたしは、未知の詩集を内包しているのだけれど、これを一冊の本にしたいと強く願っています。
きっとあなたのなかにも、未知の一冊の本があるはず。

機微な詩人になる方法 2002/01

開いた窓から凩(こがらし)が入ってくる。

裸足の足指を硬く冷たくさせるその風に
何度めかの冬を思う。

季節のうつっていく様を伏し目がちに受け入れるようになったのは
いつからだろうかと、思い巡らせる。

幼い頃は、空気の匂いで季節を感じていた。
その後は、制度としてある季節感を拠りどころにしていたような気がする。 例えば、ファッションや味覚、行事、スケジュール帳のアルファベット。 そしてこの1年は、体内にある、思い出と呼ばれるものかもしれないその感覚に 風が吹きこんで、胸の奥でなにかが軋む。その音が季節の糸玉を転がす。

この時。こころという言葉をつかわずに こころを開くことができれば。 道端の草が柔らかい芽を伸ばすような詩が生まれる。

季節は一秒たりとも無くならない。
連綿とつづく時間のなかで確かな背景としてあるもの。
季節を沈黙にうけいれることもあれば、小声で言ってみることもある。 伝えたくって、誰かの腕をとり、告げることもある。

個性的である必要はないのだなと思う。
自分自身から自由になるためにもね。
自分らしさに固執してはだめよ。と、わたしはよく言う。
凩がしのびこんできて、火照った体温を0.5度さげるように。
季節は、誰にでも等しい。

選んで組み合わせた言葉にはしらずしらず、あなたがにじみでるわ。 声にしてもそう。あなたをくぐりぬけて発せられる。
持ち味をいかすために、耳を澄ませ、しずかに意識的にみつめること。 感情や体調はなんらかの作用をもたらすけれど、奥底にある いのちの熱量は変わることはない。

その点をふまえて。
詩人は風をこころにいれて、言葉をつむぐ。
想像の窓から想像の風をいれて。
耳を澄ました機微が、また誰かの耳に、季節のように届けられる。

再び・生きる詩人になる方法 2002/03

毎日、地下鉄の駅までの道に花を見る。

自宅から長居公園沿いにえんえんとまっすぐの道が続く。
駅に近づくと、土中に瓶が1本埋め込まれ、そこにはいつも花が飾られている。
交通事故で亡くなった人がいるのだろうか。
松と白菊がくっきりと活けられたお正月は、新年を死者と供にむかえるのだという、清清しさだった。
長居公園の近くに暮らして1年が経つが、いつでも花は活け変えられ、枯れることがない。
見えない死者を日々の拠りどころとする誰かの意志を感じる。

死者は死につづけることしかできない。

そして、生き残った者は死者を記憶しつづけることによって、未来に生きることのない他者を自身のなかに持つ。

花を活ける人を見たことがないので、どんな人かわからない。
電車を乗り継ぎ、長い時間をかけてここにやってくるのか、散歩する犬を連れて立ち寄るのか。
携えた花を地面に置き、その人はしゃがみ、深い沈黙に目を瞑っていると思う。
とりかえしのつかない悔恨やせつなさの前でわたしたちは、言葉を選ぶことはできない。

詩に関わるようになって30年近くたつわたしも、いまでも言葉とうまくつきあえない。
詩人でもライターでもあり、たくさんの言葉に接し、言葉を選んでいるにも関わらず、てらいのない適切な言葉を選ぶことは難しい。
言葉をあつかう気持ちに上滑りせず、閉じず、奢らず、翻弄されずにいること。

うっかり、その渦に巻き込まれそうなとき、わたしは道端の瓶に飾られたひっそりとした花を思う。
沈黙を抱きながら、死につづける死者とむきあい花を握るその人の手を思う。
その人が担っていく生への意志を思う。

自身の人生をひきうけていくときに、言葉が沈黙を越えることができないとしても、
それでも、その沈黙に薄黄緑の風がやわらかく吹き込み、光を照らすような言葉を添えたいと思っている。
それが詩人の仕事だ。

着物の裾をひるがえし自転車をこぎながら、駅に向かうわたしは傍らを見る。
いつものその瓶に、今日は百合が白く咲いている。

手をあわせたその人の沈黙の後をひきうけた咲きかたで、静かに。